湯屋と髪結床

風呂屋と散髪屋は昔から深い関係があったようである。
大阪の風呂屋は水船で淀川上流から水を運ぶため、川淵の橋詰に多かったそうで「髪結床と風呂屋は大阪では、通常橋詰にあったものだ」という記述もある。又、江戸時代の滑稽本「浮世床」(式亭三馬)の中には、「大道直して、髪結床必ず十字街にあるが中にも、浮世風呂に隣れる家は、浮世床と名を呼びて、軒稱て、連牆の梳髪舖」とあり、“諸人集まりて浮世の雑談をなす故に髪結床を浮世床と呼ぶ。”と、床屋が風呂とともに庶民が集う場所であった事がうかがえる。なお同じ著者の「浮世風呂」も刊行されており、これらの本は人々が風呂の後に髪結床に行ったり、髪結待ちに湯屋を利用したりした姿が描かれている。ちなみに西欧中世の共同湯場の浴場主は本来理髪師もかねていて、浴場で散髪や髭剃りなどのサービスを行い、日本でも湯女風呂の時代には風呂を浴び頭髪を洗い櫛梳するサービスがなされていた。