お風呂の歴史

風呂の始まりは六世紀に渡来した仏教の沐浴に端を発する。仏教では汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事と沐浴の功徳を説いた。
寺院では浴堂を備えて施浴が盛んに行なわれ、浴室のない庶民にも入浴を施したとされる。そして平安時代の末には銭湯の走りともいえる湯屋が京都に登場することとなる。奈良時代に始まった施浴の習慣は鎌倉、室町時代に入っても幕府や寺院によって受けつがれ、一定の日にちを定めた「功徳風呂」などと呼ばれて庶民にふるまわれた。さらに施浴の習慣は個人にも広まりをみせ、趣向をこらした入浴の後には茶の湯や酒食でもてなし、人を招いて遊ぶことを「風呂」というようになった。又、庶民階級でも富裕な家は近所の人々にふるまったり、地方でも村内の薬師堂や観音堂に信者が集まり、風呂をわかして入った後、持参の酒・さかなで宴会をする「風呂講」が行われた。
銭湯が急速に広まりを見せるのは江戸時代である。江戸の銭湯は天正19年(1591)伊勢与市というものが銭湯風呂を建てたとあるのが記録にあらわれた最初で、慶長年間の終わり(17世紀初頭)には江戸の「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まった。(大阪の銭湯のはじまりは天正18年(1590)で江戸より1年早い)
当時の風呂は「戸棚風呂」という蒸し風呂の一種で、浴槽の底に湯を入れて下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みであった。この湯気が逃げるのを防ぐために工夫されたのが「ざくろ口」である。そして慶長年間の末ころ、今風なたっぷりの湯に首までつかる「すえ風呂」ができ、一般庶民の家庭にも広まりを見せることとなる。当初は湯を桶に入れるくみ込み式であったが、のちに桶の中に鉄の筒を入れて下で火をたく「鉄砲風呂」が発明され江戸で広まった。又、桶の底に平釜をつけて湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かったようである。
江戸時代の銭湯は朝からわかして午後4時まで(ちなみに午前5時ごろからの朝湯は東京下町の風習で、昭和にかけて続くが日中戦争が始まった1937年(昭和12年)10月10日、浅草や神田など城北7区559件が朝湯の廃止を申し合わせた。)であったが、上下の別なく裸のつきあいができる庶民のいこいの場所として楽しまれた。
やがて銭湯で客に湯茶のサービスもするようになり、昼は客の背中を流し、夕方4時を境に客をもてなす湯女を擁する「湯女風呂」が登場、一時は吉原遊郭がさびれるほどのにぎわいだったという。幕府は風紀上の理由から禁止令を出すが効きめはなく、元禄16年(1703)江戸をおそった震災が引き金になって湯女風呂は自然消滅する。しかし銭湯は庶民のいこいの場として存在し、天保のころ(1830〜44)銭湯の2階を広間として、茶を飲んだり菓子を食べたり、囲碁・将棋などが楽しめる「2階風呂」が流行した。(もともと湯屋の2階は武士の両刀を預けるためにはじまった事から町人の町大阪では「2階風呂」はなかったようである。)
江戸の銭湯は当初より男女混浴であったが、天保の改革(1841〜43)の際厳しく取り締まりが行われ、浴槽の中央に仕切板を付けたり、男女の入浴日時を分けたり、男湯だけの銭湯も現れた。しかし長年の風習は簡単には改まらず、実際に混浴がなくなるのは明治23年(1890)の子供でも7才以上の混浴は禁止という法令が出されて以降となる。
明治時代になって銭湯の様式は一変し、ざくろ口は取り払われ、屋根に湯気抜きが作られ、洗い場も広くなった「改良風呂」が評判となる。
さらに大正時代には銭湯の近代化がすすみ、洗い場や浴槽はタイル張となり、昭和2年には浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ衛生面でも向上する。
今日では銭湯もさまざまな趣向がこらされ、サウナや気泡風呂も一般的となり、清潔のためというだけでなく風呂に“プラスα”を求める“お風呂好き”人間にも楽しまれるようになっている。